| １ 「──じゃあエレーナ、頼んだよ。わからないことがあったらいつでもすぐ私に連絡しなさい。イヴァンも今日は手伝いに来ているようだから、遠慮なく使うといい……！」 病院の私室のドアを開けながら、笑顔でそう言った怜は、その場で立ちすくんでしまった。 冬の夕焼けがあかあかと部屋に差し込む中、窓を背に、スーツ姿の長身の男が一人、佇んでいたのだ。 「先生？ どうされたんですか？」 「い、いや、何でもない！ 早く患者さんのところに行ってあげなさい」 研修医のエレーナが、心配そうにふり返ったのであわてて首を振る。それから大急ぎで部屋にすべり込み、すばやくドアを閉ざした。 「アレック、どう……！」 怜が最後まで言い終わらないうちに、相手はこちらを見つめたまま大股で近づいてきて、いきなりその身体を思いきり抱きしめた。彼の腕の力強さと精悍な胸の温もりとに、怜の心臓は跳ね上がり、早鐘のような勢いで打ち始める。断りもなしに彼がここにいるのは初めてだった。 「ちょ、ちょっと待ってください……！」 「待てない」 見上げてくる怜の言葉を、アレクサンドルはあっさり遮った。そっと顎に手を添えさらに上向かせると、すぐさま顔を覆い被せてくる。熱っぽい緑色の瞳に間近で見つめられ、怜はいつものように呪縛されたように動けなくなってしまった。 「んっ……！」 唇が触れるのと同時に、アレクサンドルは熱く濡れた舌を怜の口の最奥まですべり込ませた。息を呑む暇もなく、怜の舌はからめ取られ、歯でも押さえられて思いきり吸い上げられる。 三週間ぶりに口いっぱいに味わうその感触に、怜は身を震わせた。ぞくり、と、背骨の付け根から快感が這い登ってくる。それは熱さと痺れるような感覚とを伴い、たちまち怜の全身に行き渡った。乳首と下半身とが、内側から押し上げられるようにして硬くなる。 「……！」 アレクサンドルが怜の身体を強く引き寄せた。片方の手で、怜の白衣に包まれた背を背骨に沿って撫で上げる。 同時に口づけがさらに深くなり、もっと強い快感が背中を走って怜ははっとした。気づかないうちにアレクサンドルに自分の身体をこすりつけるようにして密着させていたのだ。その行為と、自分の反応のあまりの速やかさに頬が染まる。 「アレッ…ク、どうしてここに……。あなた、今は王宮でお仕事を……」 必死にかぶりを振り、身を離す。なんとか言葉を絞り出すと、行為の濃密さを示すかのように、唾液が銀の糸になって零れそうになった。怜はさらに真っ赤になって唇を押さえる。最初に聞くべきだったのに、彼に抱きしめられたとたん、我を忘れ、そのまま彼の情熱を受け入れ、貪りそうになってしまったのだ。しかも全身がまだアレクサンドルに触れたがっている。 「窓から入った。王宮は抜け出してきた」 「えっ……!?」 あっさり答えられて絶句する。アレクサンドルもまた濡れた唇で、怜を凝視したまま、さらに続けた。明らかに怒った声だった。 「もう、なんとしても君に会いたかったのだ！ エリシアに帰ってきたというのに、君は全然王宮に戻ってこないじゃないかっ！」 「で、でも、この間までクラコフ首相が王宮にご滞在していらしたでしょう。それに研修医の指導もしなくては……」 必死に言う。とたん、アレクサンドルは何故か顔をくしゃくしゃにし、もう一度怜の身体を、今度は包み込むようにしてかき抱いた。その感触に、怜はまた小さく震えてしまう。 「……レイ、私のことはどうでもいいのか？」 その時、さっきとはうって変わって、ひどく気弱そうな声が聞こえた。怜は驚いて顔を上げる。恐いくらいに真剣な、緑色の瞳がこちらを見つめていた。 「一度日本に戻ったら、里心がついたのではないか。連絡しても君はいつも、ずいぶん忙しそうで電話も切るし、メールも短いし……」 そして一瞬ためらってから、顔をぐっと近づけてくる。またその瞳が怒りに光った。 「もしや誰か、日本でいい人でも待っていたのではないか。それともまさか、こっちにいるのか!?」 「何をおっしゃるんです、そんなこと絶対にありません！」 あわててかぶりを振る。日本に帰国していた間、怜は、思った以上にたくさんの用件に追われることになってしまい、本当に時間がなかったのだ。 だが、そんなふうに怒りを露わにしたアレクサンドルは、いつもよりさらに男っぽく素敵に感じられて、怜はつい見とれてしまった。そもそも自分がアレクサンドル以外の人のことを想うなんてあり得ないのだ。もうそれだけで心が一杯になってしまうのだから。それなのに、何故そんなことを聞くのだろう。 ──忙しいのはアレックだって同じじゃないか。即位して間もないから、毎日深夜までずっと政務だし……。それにどうして……── 「じゃあ、あれは一体なんだ！」 怜の想いをよそに、アレクサンドルはまた強い口調で横を向き、机を指した。医学書や研修医たちの出したレポート、それに皆がくれたヴァレンタインの贈り物をまとめて入れた袋などで一杯になっている隙間に、平たい長方形の包みが一つ置かれている。綺麗な臙脂色の包装紙と、金色の布のリボンというラッピングのそれは、チョコレートだ。 「え？ あ、あれは……」 怜は真っ赤になった。思わず顔を背ける。脳裏に、一週間前の光景がよみがえって来た。 |